NOVEL
Heaven's Royale -Archangel's Desire- 3/6
自室まで歩いていると、ベリアルとなぜか尻を押さえているラグエルがいた。
二人と何か話した後なのか、遠くにメタトロンの後ろ姿も見えた。
「いったぁ……マカロンは美味しかったけど、アルアルの蹴り強すぎない?」
「はははっ、追い出されてしまいましたね」
「紳士くんもアルアルに押し出されてなかった? 大丈夫なのかい?」
「私は鍛えていますから。あの程度、私の筋肉なら痛くありませんよ」
何があったのかは聞くまでもない。
どうせこいつらが女どもの集まりに余計な首を突っ込んだのだろう。
殴られるのは分かっているのに、どうしてあれに混ざろうと思えるのか。
僕は呆れてその場を通り過ぎようとした。
「アザゼル」
ベリアルが真剣な顔で呼び止めてきた。
僕は背を向けたまま「何だ」と一言返した。
「たった今メタトロンから報告がありました。地獄の悪人が一人足りない、とのことで」
「それがどうかしたのか? 地獄ならメタトロンや下級の失態だろう」
「確かにそうですが……調べるためには手がかりが必要です。メタトロンが地獄で貴方を見たそうで」
ただの筋肉バカだと思っていたが、僕に目をつける辺り、意外と鋭いようだ。
最も、この僕がそんなことでボロを出すことはありえないが。
「姿を消したのは0943番です。貴方は見ていませんか?」
「僕が悪人を消す理由などないだろう。脱走じゃないのか」
「すみません。少し、昔のことを思い出してしまったので」
ベリアルが言っているのは、僕が下級だった頃にあった悪人の脱獄事件のことだろう。
「ん? 何かあったっけ? 何十年前の話?」
ラグエルは首を傾げている。
何十年前、という言い方が年寄りらしい。
この爺は長生きしすぎて忘れているようだ。
「僕は縄を取りにいっただけだ。悪人とは会っていないし話してもいない」
「縄って……へえ。アーくん、そんな趣味があったんだ……」
ラグエルが意味深な顔で何度もうなずいている。
隣ではベリアルがきょとんとしている。
「美少女と拘束なんてやっちゃうのかい? ああ、それもやりすぎたら悲劇になりそうでいいね」
「あの、何の話ですか? 縄で何をするのですか?」
「ふふふ、紳士くんには刺激が強いかもよ。拘束っていうのはね……」
ラグエルがベリアルに耳打ちしている。
嫌な予感しかしない。
「ああ、あの縄で進路を塞ぐのですね。なるほど、小回りの利く飛行の鍛練ですか。それは感心です。私も今度やってみましょうか、拘束!」
ラグエルの変態趣味のおかげで、ベリアルの疑いは逸れたようだ。
その代償に変な勘違いをされたようだが、ベリアルのことだ。
すぐ筋肉の話で忘れるだろう。
***
階段代わりの穴を降りて鍛練場に入ると、当然誰もいない。
この時間、ほとんどの天使は眠っているか、賭け事や酒に溺れている。
僕は実力を悟られないようにするために、この時間に鍛練をしていた。
これが最後の日課になるだろう。
普段使わない翼も、ここでは惜しまず使う。
人間の形をした板は悪人を想定して作られているが、僕はこれを憎き大天使と想定する。
翼を使って高く跳躍し、空中から豪快な一撃を叩き込む。
板は跡形もなく粉砕された。
正直言ってこんな鍛練を続けるのは柄ではなく、相手も本物のルシフェルではないので楽しくない。
だが、ルシフェルを殺すためだ。
大天使になったら、この鍛練は即日課からなくすつもりだ。
「君は面白いね」
誰もいないはずだったが、僕が集中していて気づかなかったのか。
声に反応して振り返ると、ラグエルが柱の前に立っていた。
「おいおいおいおい、覗き見か? 悪趣味な奴だな」
僕は地面に降り立ち、大剣を肩に担ぐ。
「覗くつもりはなかったんだけどね。アーくんが何で毎日夜中にここに行くのか、気になったんだよね」
「僕を追いかけていたのか? お前はあれか? アイドルを追いかけまわすファンか?」
「アーくんのお前はあれかシリーズ、よくネタ尽きないよね」
ラグエルはポケットから棒付きキャンディーを取り出し、ねぶり始めた。
「君は毎日ルシファーに不毛な争いを引っ掛けて、学習しないと見せかけて、人知れず努力してる。みんなは君がルシフェル様にちょっかいを出しているだけとか思っているけど、違う。アーくんはルシファーを殺そうとしてるよね」
大剣の切先を額に突きつける。
にやけ面が少し驚きに変わった。
「だから何だ」
「すごい悲劇になりそうだから気になったんだ。どうしてそこまでして殺したいんだい? もしかしてミカちゃん関連?」
脳裏に情景が浮かぶ。
先代の大天使ミカエルと、ルシフェルと、脱走した悪人の女。
「話すつもりはない。それ以上詮索したところで、お前の首が吹き飛ぶのが先になるだけだぞ」
「じゃあやめておこうかな。で、この板、いつものように新しいものを置き直さないの? 毎日、そうやって鍛練した証拠を消してたんでしょ?」
「必要ない」
どうせ明日がルシフェルの命日なのだから。
僕はラグエルの横を通り、鍛練場を後にした。
ラグエルに鍛練を妨害されたのは不満だが、あまり疲れても困るので寝ることにした。
僕は部屋に戻り、3時間だけ横になる。
ルシフェルが竪琴を弾いているのか、音が聞こえる。
曲名は、いつも同じ”天国の夜想曲”。
曲自体は特に嫌いではないのだが、著しく気分を害してくる。
どんな美しい音色でも、奏でる者があれだと竪琴もけがれてしまうだろう。
まあいい。
この不快な旋律も聴くのも最後だ。
最後くらいは、許してやろう。
***
遅くまで騒いでいた天使たちも寝静まった、明け方。
エデン区で最も高い建物である天使の城。
そのさらに上の屋根で、僕はルシフェルと対峙していた。
「こんなところに呼び出して、何の用だ」
ルシフェルは眠そうに欠伸をする。
この忌々しい顔を見るのも最後だと思うと、許してしまう自分がいる。
「ルシフェル様。一つ、お願いがあります」
両手を広げ、無防備でルシフェルの下に歩いていく。
「何だ? 何でも言ってみろ」
「大した用ではないんですが……」
大剣に手をかける。
同時に、ルシフェルの指先が腰の細剣に向かう。
「死ね」
わずかな砂が跳ね上がる。
屋根から屋根に高速で飛び移り、ルシフェルの頭を狙う。
「またか。別に構わないが、朝は勘弁してくれないか」
ルシフェルは怠そうに話しながら、瞬時に細剣を抜く。
僕はお前を殺すためにわざわざ早起きしてやったのだ。
それぐらいは理解しろ。
身長も脳漿も小さいのか、このチビは。
「だから明け方を選んだ。僕はお前を殺して大天使になる」
空中で大剣と細剣が交錯する。
それだけなら毎日繰り広げられる光景なのだが、今回は違う。
細剣の攻撃を大きく跳躍してかわし、そのまま空に留まる。
「どうした? 今日はやけに飛ぶんだな」
ルシフェルが普段と違うことに勘付く。
「喜べ。今日でお前の時代は終わりだ」
空中で回転し、大剣を振り下ろす。
避けようとしたルシフェルを衝撃波が襲う。
「……おっと」
ルシフェルは腕に直線状の傷を負った。
どうだ、恐れおののけ、戦慄け。
僕の攻撃は格段に早く、力強いだろう。
そして、今までになかった空中からの攻撃を絡めている。
お前は今まで、僕の演技を本当の実力だと思い込んでいたのだ。
「珍しく素直に俺のアドバイスを聞いたのかと思ったが、どうやら違うらしいな」
「おいおいおいおい、お前の戯れ言など誰が聞くか。僕に指図していい者は僕以外に存在しない。存在すら許されない」
「なるほどな。今まで手を抜いていたな。毎回やられる真似をして、本当の実力を隠していたな」
想像以上に、ルシフェルが種に気づくまでの時間が早い。
だが、僕が仕掛けた”蛹”までは気づかないはずだ。
「へっ、ふへへへっ! 勝つための手段など何でもいい。一番強い奴さえ死ねば、必然的に僕が最強になる」
「俺を欺いたのはいい。だが、果たしてそれが最強と言えるのか?」
脳内に虫唾が走る。
お前にとっての最強など、僕にとっては道端の蟻、その吐瀉物以上に意味のないものだ。
「黙れ。お前はあれか? 一番近くにいた敵の実力も見抜けない小物かっ!?」
「それがお前の本気か。アザゼル」
大剣を持つ腕に力を込める。
攻撃を受け止めきれず、ルシフェルは後ろに吹き飛んだ。
だがルシフェルはすぐに身を翻し、さらに高い位置から突きを繰り出してくる。
空中戦において、重さのある大剣は不利だ。
大剣を一度振り下ろすと、持ち上げるのにさらに力を要する。
翼で避けようとしたが間に合わず、細剣が肩を穿つ。
暁の空に、血飛沫が舞った。
屋根の上に降り立ち、舌打ちをする。
「この腕に傷を負わせたのは少し驚いたが、力任せなのは変わっていないな」
また始まった。
殺したくなる程大嫌いな、こいつの嫌味が。
「君の翼は普段使わない分、速さで劣る。そして武器の重さがある分、長期戦には向かない。翼任せなラビエルと対照的で少し面白いな」
ルシフェルは空中で細剣を回転させ、持ち直す。
そろそろ、僕の待ち望んでいた瞬間が来そうな予感がした。
「だが、まだまだ力不足だ。出直せ」
ルシフェルが、下にいる僕に向けて真っ直ぐ降下してくる。
今だ。
「……果たして、そうかな?」
城の窓に腕を伸ばす。
そして、縛られたまま生きた男――”蛹”を引っ張り出す。
それを自分の盾にした。
「なっ……!」
ルシフェルの細剣が男に刺さる。
即座に男を大剣の峰で薙ぎ払う。
体に細剣が刺さったまま、男は落下した。
ルシフェルの体から、輪と翼が消えた。
「ふっふへはへへ! へはへへっ!」
上手くいった。
完璧だ。
ルシフェルは無言で男が落下した場所を見つめている。
「取りに行ったらどうです? もっとも、ここから人間の身で飛び降りて、無事でいられるとは到底思えませんがねぇ!」
人間同然の姿になったルシフェルに、容赦なく攻撃を繰り出す。
大剣で、肩から脚まで斜めに切り裂く。
武器さえ奪ってしまえば、こいつはもうでくのぼうだ。
いや、でくのぼうなのは最初からか。
「……驚いた。予め、この場所に用意していたのか。悪人の男を」
人間の体に細剣を刺してしまえば、簡単には抜けない。
僕はルシフェルの武器を奪うためだけに、あの”蛹”を用意した。
奴も、何が起こったのか分からないまま死んだことだろう。
「そして、高い場所で武器を落としたら最後、取りに行くことは死を意味する。考えたな」
ルシフェルは唇から血を零しながら感心している。
「当然だろう。僕は最強の天使だからな」
「それぐらいで慢心するな。君はまだ甘い」
また舌打ちしそうになったが、優位に立ったという高揚が上回った。
ルシフェルは丸腰のまま、徐々に後退する。
そして城の屋根から静かに飛び降りた。
「ふへっ、自殺か? それとも捨て身か? この天国なら、骨を折る程度の怪我など気にしないということか」
翼を失った天使が落下する様を、上から嘲笑う。
「だがお前は忘れている。ここに、この僕がいることをなぁっ!」
壁を蹴り、落下を超える速度で急降下する。
下に落ちた男は既に息絶えたのか、抜け殻のような縄と細剣が残っている。
「お前はあれか? 自分で墓穴を掘る敵役か?」
ルシフェルが地上に墜落する前に着地し、細剣を拾う。
「お前が欲しいのは、これだろう?」
細剣を見せつけるが、無論返すつもりはない。
ルシフェルもそれを分かっている。
「ほら、返しますよ。僕に丸腰の堕天使を殺す趣味はないので」
これを後ろに投げて川に捨てるのも面白そうだが、それより面白そうな使い方がある。
「……と言うとでも思ったか?」
細剣を左手に持ち、翼を使って飛び上がる。
そのまま、串刺しにした。
「へっ、はへへっ! 自分の武器で殺される。無様だな!」
ルシフェルの体に細剣が刺さったまま、城の窓を突き破る。
ガラスが大きな音を立てて宙を舞った。
入ったのは大天使の部屋だった。
「ふふふっ……はははっ、はははははっ!」
部屋の中心で倒れたルシフェルは、死を前にして笑い声をあげた。
その様子に、僕は眉をひそめた。
不服だ。
なぜお前が笑う。
笑うのは僕だろう。
「先代の仇のつもりか。アザゼル」
余裕があるように振る舞っているが、声は掠れている。
ようやくこいつの死を拝むことができそうだ。
「仇? そんなものに用はない。僕が欲しいのは、最強という地位と美少女だけだ」
「そうか。君は、欲望の赴くままに俺の命を狙ったのか。この人生に飽きていたのは事実だが……まさかこんな、完膚なきまでに打ちのめされるとは思わなかった」
「負け惜しみか? いいぞ。もっと醜く命乞いをするといい。”一度につき、急所を一回刺してやろう”」
これも好きな小説の一節。
こいつを殺した時は、高笑いと共に言ってやると決めていた。
「……そんなことはしない。誰かが、こうしてくれるのを、ずっと待っていたからね」
「何?」
昂っていた気分が、この一言で阻害された。
「これが、死というものか。ああ、なんて……楽しい。君も味わうといい、アザゼル。永久に続く退屈を」
死にたがっていたのはなんとなく察していたが、その理由が退屈?
ふざけるな。
せっかく望み通り殺してやったというのに、どうして悔しそうな顔をしないのか。
それが気にくわない。
「くだらん。お前と違って、僕には退屈凌ぎがいくらでもある。それだけで100年は余裕で超せる程な。
この天国に飽きるようなら、飽きないように変える。大天使にはそれができる。お前は無能だから、それができなかったようだが」
お前が喜んだまま死ぬのは許さない。
思いつく限り罵ってやる。
お前は悔しがって死ね。
それが一番お似合いだ。
「ずっと、気になっていた。二度目、いや三度目の死の先に何があるのか。相手が君なのは、残念だが……最後は少しだけ楽しめたよ。ありがとう」
黙れ。
黙れ黙れ。
なぜお前が、僕より満足している。
「これで、やっと長い退屈が終わる……」
腹に刺さった細剣を抜く。
そしてこれまでの恨みを込めて、もう一度腹に突き立てる。
ルシフェルは満足そうな表情のまま、動くことはなかった。
「悔しそうな顔をしなかったことだけは気に入らないが、まあいいだろう」
ルシフェルは死んだ。
もう、こいつが僕の機嫌を損ねることはない。
そう思うと、ルシフェルがどれだけ満足して死んだかなどどうでもよくなった。
どれだけこいつが嬉しそうな顔をしようと、死体は消えるのだから。
それに、これからもっと面白いものが待っている。
「生意気な奴らの悔しそうな顔を、これからたっぷりと拝んでやるからな」
特にルシフェルを慕っていたラビエルや、レミエルは期待を裏切らないだろう。
「へっ、ふへはへへっ! へはへへへっ! はーっへへへへっ!」
僕は玉座に座り、血で汚れた両腕を広げる。
そして、声が枯れるまで笑い続けた。
「これで、僕が大天使だ……」
馬鹿で、無能で、楽しませてくれたミカエルの顔が、ふと頭に浮かんだ。