NOVEL
Heaven's Royale -Archangel's Desire- 5/6
ルシフェルの死と、新たな大天使の誕生は、瞬く間にエデン区に知れ渡った。
女天使どもは集まって、僕の暗殺計画でも立てているのだろうか。
構わない。
例え全員で襲ってきても、返り討ちにするだけだ。
それ以外の天使たちの仕事は昨日までと変わらない。
ミカエルが大天使だった頃から天国のシステムはあまり変わっていない。
ルシフェルが遺したものは全て変えてやろうと思ったが、あまりなかったので変える必要もなかった。
唯一、ルシフェルが遺したもので、大きな影響を及ぼすものがある。
ヘブンズ・ロワイヤルだ。
だがロワイヤルの代替策を考えるのが面倒なので残すことにした。
僕はロワイヤルがあまり好きではなかったが、それは自分が賭ける側だった頃の話。
大天使になれば高みの見物をしているだけでいいので、欠点を気にすることもない。
僕はルシフェルと戦った場所――城の屋根の上に座り、一人エデン区を見下ろしていた。
風でフードが引っ張られて、今朝と変わらない姿になった。
陽は天頂近くにあり、地獄の連中以外は昼食を食べている頃だろうか。
「……っ!」
聞こえてくる音に、僕は思わず耳を塞いだ。
今は夜ではない。
ルシフェルは死んだ。
あの竪琴も壊した。
なのに、どうしてまた”天国の夜想曲”が聞こえるのか。
しばらく塞いでいると、それは聞こえなくなった。
代わりに、屋根を歩く足音が聞こえてきた。
「見張りはいいのか?」
背後に迫る気配に、言葉を投げかけた。
「見張りにも休憩はありますよ。下級天使と交代していますから」
そう言って、ベリアルは僕の右側、そこから少し距離を取って屋根に腰かけた。
「アザゼル。一つだけ、聞かせてください」
様をつけろ、と言いかけてやめた。
こいつが真剣な顔をしている時は、決まって嫌なことを聞いてくる。
「ルシフェルを殺した理由は……ミカエル様の仇ですか」
「違う」
即答した。
エデン区の街並みに向いていた視線が、僕に向けられる。
「僕は最初から、大天使にしか興味がなかった。自分の上に誰かがいるだけで反吐が出る」
「確かに、貴方は昔からそんなことを言っていましたね」
「お前が歳をとっただけだ。懐古ばかりしていると、ラグエルのような爺になるぞ?」
「はははっ、そうかもしれませんね。サンダにはおっさん呼ばわりされていますし、ペヌエルにもおっさんで覚えられてしまいました」
僕ならおっさん呼ばわりは耐えられないが、ベリアルは嬉しそうだった。
あの双子を弟のようにかわいがるなど、僕には絶対にできないことだ。
「こんな筋肉の塊のような爺がいるか」
「はい。私は鍛えています。まだまだお年寄りにはなりませんよ」
ベリアルはしばらく笑ってから、空を見上げる。
橙の長髪がそよ風でなびいて、その表情は見えなかった。
「あの頃のことは、私もよく覚えています。今では、それを知る天使も減りましたが」
そんなことも、あったか。
思い出していく。
柄にもなく働いた日、嫉妬で塗れた日、そして充実した日々を。
***
大天使がミカエルだった頃。
下級天使だった僕は、ベリアルと地獄の看守をしていた。
「クズめ。お前はあれか? 言われなければ何もできない子どもか? この僕に逆らうとは、死んでも構わないということだろう?」
時にはベリアルに止められながら、僕は必要以上に悪人をいたぶっていた。
僕の苛立ちは、偉そうに指図する上級天使たちから起因する。
今ではラグエル以外が死んだが、上級天使の堕落は当時も変わらない。
酒を飲んでばかりで何もしないくせに、下級のミスだけは粗探しをする。
僕が大天使を志すようになった最初の理由、それは”こいつらを逆に見下してやりたい”という簡潔なものだった。
「お前たちクズと戯れている程、僕も暇ではない」
こんなことをしている場合ではない。
僕は強くならなければならない。
ルシフェルは僕とほとんど同時期に天使になったが、僕より上の役職に就いている。
そのことと奴のいけすかない性格も合わさって、僕はルシフェルを妬んでいた。
信じようとしなかったが、当時の僕の実力はルシフェル、いやほとんどの天使に劣っていた。
このままでは、今後も看守を続ける羽目になるだろう。
今日もまた新しいクズが地獄に送られてきた。
女が1人、番号は880番。
だが女は地獄に怯えるよりも先に、僕を指さして一言。
「スケープ、だよね?」
と放った。
そんな名前の天使はいない。
だが女は明らかに僕を見ている。
「何で天使の恰好してるの?」
「は?」
「忘れたの? ネフィリムだよ。一緒に、組んでたでしょ?」
考えられるのは二つ。
女が僕の知り合いを装って地獄から逃げようとしているのか。
それとも、本当に生前の知り合いなのか。
その日から、僕はネフィリムという女に付きまとわれるようになった。
悪人にも少し休憩時間が与えられているが、その時間になるとネフィリムが必ず来て昔話をする。
正直鬱陶しいが、殴る蹴る以外の対処法がない。
当時はヘブンズ・ロワイヤルが存在していなかったので、地獄から出すこともできなかった。
この女によると、僕はスケープという男と酷似しているらしい。
スケープは不慮の事故で、ネフィリムより先に死んだ。
そして、このネフィリムは生前同じグループに属していたとのことだ。
そのグループというのは、強盗を生業にしていたグループらしい。
僕は強盗といった、そんな小賢しい真似はしない。
同業者であるペティに対しても、同じことを思った。
だが僕に似ている男というのは少し気になる。
興味本位で、城の資料を使ってスケープを調べた。
確かに顔はよく似ている。
しかし、僕はこんな野暮な服装は絶対にしない。
天使が制服以外を着ることはほぼ皆無だが、確信できる。
仮に記憶を消されても、この不格好な眼鏡は本能的に受け付けない。
そういった理由で、僕はスケープを別人だと思っている。
そう思っているのは数十年経った今も変わらない。
なので、他人の話ばかりしてくる女には辟易していた。
「この地獄を抜け出したいんだけど、手伝ってくれない?」
ある日、ネフィリムはこんなことを提案してきた。
どうせ失敗する、と分かっているが僕は話だけ聞いていた。
脱走が失敗すれば、僕や他の看守がこいつに罰を与えて終わるだろう。
天使は悪人を殺せないので、今後もこいつに他人の話をされるのだろう。
面白くない。
どうせなら脱走してくれた方がいい。
もしこの女の脱走が成功すれば、もう付きまとわれることもない。
そんな軽い理由で、僕はネフィリムの脱獄に加担した。
当時の地獄は入口にはしごが掛かっていて、人間でも穴の外に出るのは容易だった。
この事件をきっかけに、はしごはなくなることになるのだが。
星が瞬く天国の夜。
僕は自分の仕事が終わってから、門番のベリアルに話しかけて、一瞬だけ目を退けた。
そしてネフィリムを逃がした。
どうして自分が掟を破るというリスクを踏んでまで、逃がそうと思ったのか。
今考えてもよく分からない。
ネフィリムが鬱陶しいから、だけではなかった気がする。
しかし、ネフィリムの自由は長く続かなかった。
地獄から出て、一人の女が真っ直ぐに走る。
この時間、この道に誰もいないのは確実で、何度も確かめた。
だが、まるでこうなることを分かっていたかのように、そいつは颯爽と現れた。
拳を鳩尾に叩き込まれ、ネフィリムはあっさりと気絶した。
「悪人が脱走したので、捕まえました」
そう言って、奴は僕を見て怪しく笑った。
奴は僕の話を盗み聞きして、待ち伏せしていたのだ。
悪人を捕まえたという手柄を得て、上級天使になるために。
僕がルシフェルに初めて殺意を抱いた瞬間だった。
***
普段、下級が入ることのないミカエルの部屋。
僕とベリアル、ルシフェルは、大天使の前に呼び出されていた。
部屋には気絶しているネフィリムと、それを傍観するラグエルがいた。
「つまり、おまえは悪人が脱走したことに気づかなかった、ということか?」
「申し訳ございません。全て、私の責任です」
緊迫した空気が漂っている。
僕の担当は昼だったので、門番をしていたベリアルが責められた。
ミカエルは僕が加担したことを知らないので、当然というべきか。
ルシフェルは知っているくせに、何も言わない。
言い訳を一切しないベリアルより、ルシフェルの存在が僕を苛立たせた。
「紳士くんは女の子に甘いからね~。で、ミカちゃんはどうするの?」
と、ラグエルが言った。
この場にいることや、大天使もミカちゃんと呼んでいる辺り、相当偉い上級なのか。
「おまえはそのようなことをする天使ではないと思っていたが、見損なったぞ」
ミカエルはため息をつく。
そしてベリアルの前に手を差し出した。
「武器をよこせ。おまえを堕天使にする」
ベリアルは槍を手に少し逡巡している。
このまま何もせずに立っていれば、ベリアルが堕天使になる。
僕とルシフェルはそのままで、ネフィリムはまた地獄に戻されるのだろう。
それでは、つまらない。
僕は痺れを切らしたようにベリアルの前に躍り出て、ミカエルに容赦なく大剣を降り下ろした。
ミカエルはとっさに後ろに飛び、回避した。
「脱獄を手伝ったのは僕だ」
「アザゼル、何を……」
ベリアルが目を見開いた。
ルシフェルは興味深いとでも言うように笑った。
「ほう? ならば、おまえが代わりに罰を受けると」
ミカエルは僕の前に歩いてきた。
細長い太刀のような武器を背負っている。
長いと言う点では、僕と似た武器か。
「いや、加担したのは僕だけではない。そこでにやついている、ルシフェルが元凶です」
「……え?」
ルシフェルの済ました表情が、この時はかなり崩れた。
我ながら、面白い展開になってきた。
「僕とこの女は他人ですが、ルシフェルは随分親しかったようで。ここは一つ、ルシフェルを堕天使にして一件落着というのはどうでしょう?」
僕はあろうことか、ルシフェルに責任を転嫁した。
「ふふふっ、ふははははっ!」
ミカエルは楽しそうに笑い声をあげた。
ミカエルがこれだけ笑うのは珍しいのか、隅のラグエルも少し驚いている。
「ならば、この悪人はどうするのだ」
「こうします」
僕は倒れているネフィリムの前に立つ。
そして躊躇わず大剣を心臓の位置に突き立てた。
僕の行動に一番驚いたのは、ルシフェルだった。
てっきり、僕とこの女が親しい間柄だとでも思っていたのだろう。
残念だが、僕はお前の傀儡にならないことに全力を注いでいる。
「僕とこの女は他人だ。どうなろうと知ったことではない」
女の体は消えて、刃と地面に染み込んだ血だけが残っている。
ミカエルは口角を上げて、「おまえ、面白いな」と呟いた。
ミカエルの機嫌が良かったのか、女の死でこの話は終わった。
僕とベリアル、ルシフェルの罰は不問となった。
ベリアルの言う借りは、このことだ。
僕が庇ったとでも思っているらしい。
最もベリアルの見張りを背けたのは僕なので、奴が借りと呼ぶには間違っているのだが。
***
「おまえに対する興味は尽きないな。その過剰なまでの自信はどこからきている?」
あの日から、僕はミカエルから格別の寵愛を受けるようになった。
毎晩ミカエルの部屋に呼び出され、寝るまで相手をした。
髪を梳けだの、悩みを聞けだの、カードゲームの相手をしろだの、くだらないことを延々とさせられた。
無論、僕がやりたくもないことを続けるには理由がある。
「私が、おまえを上級にしてやろう。おまえの動きには無駄が多すぎる」
頼んでいないのに、ミカエルは僕に稽古をつけた。
そこまでして僕を強くしたかったらしい。
当時の僕は強くなりたかったので、仕方なく従った。
僕が逆に大天使を利用しているのだと考えれば、不満も忘れられた。
「アザゼル、私の側近になれ。私はおまえが気に入った」
ミカエルはそう言っているが、僕はお前にとっての一番に興味はない。
それはすなわち、大天使の次でしかないからだ。
僕はお前の狗ではない。
この僕が本当に欲しいのは――ミカエル、お前の地位そのものだ。
「おまえが来るようになってから、本当に楽しいな。ルシフェルは、暇つぶしにも付き合ってくれなかった」
そして一番気にくわないのは、こいつは僕を”ルシフェルの代わり”のように思っていることだ。
あのチビの代わり、それは僕への最大限の侮辱を意味する。
お前もいつか殺してやる。
僕に完全に油断したその瞬間、殺してやる。
「なら他の上級を全て倒そう。ミカエル様の望み通りに」
僕は油断を誘うために、間抜けな忠犬を演じた。